日本の行政権が集中する東京・霞が関
大阪が過去数十年間、ずっと本社流出を続けてきており、衰退ムードが漂っていたのは多くの人が認めることだと思う。
その原因は何なのだろうか?
大きく2つに分けるのであれば、一つは大阪自身が抱える問題であり、もう一つは大阪単独ではどうすることもできない外部要因である。
前者は例えば大阪府と大阪市がバラバラで対立を引き起こしてしまい都市戦略を一本化できなかったこと、次世代産業の育成に失敗してしまったこと、などが挙げられるだろう。
後者には、国(霞が関)による強力な東京一極集中政策や、東京に立法権と行政権が集中する国家全体の構造などが挙げられるだろう。
今回は霞が関による東京一極集中政策に焦点を絞って説明したいと思う。
東京一極集中を進める3つの官僚主導政策
作家で元通産相の官僚を務めた堺屋太一氏によれば、官僚主導による大阪衰退の原因は主に3つある。
官僚による東京一極集中政策と大阪の衰退
- 情報発信機能(テレビ局、新聞)を東京に集めたこと
- 業界団体トップ組織を東京に持ってきたこと
- 文化創造活動機能を東京にのみ作るとしたこと
以下では、堺屋氏の発言を引用してみようと思う。
資料は平成27年12月28日に実施された副首都推進会議(1回目)の議事録である。
(省略)
私は、この大阪の衰退は幾つか原因があると思うんですけれども、そこにやはり深くか
かわっているのが政府の東京一極集中政策であろうかと思います。政府は一体何の集中政策をしてきたかというと、3つございます。まず第一は、情報発信機関、これを東京一極に集中する。これが1950年代から始まっておりまして、まず最初は出版。出版取次店を東京に集中いたしまして、全ての出版物を東京に運び込まないことには、他の都道府県で販売できないという制度を昭和29年、1954年にいたしました。それ以来、東京以外の、首都圏以外の出版社は次々となくなりました。
一時は「エコノミスト」も大阪堂島で印刷しておりましたし、PHPは京都で印刷しておりましたし、大阪にもたくさんの出版社があったんですが、全部なくなりました。その次に新聞社を移転しようというので、万国博覧会の前ごろからどんどんと朝日、毎日、産経を東京に移転させる政策をとりまして、官庁は全て記者クラブで発表すると。記者クラブは各省に設けるということになりまして、記者クラブのあるのは東京だけになりました。
それから、外国人記者クラブ、これは1カ所しかないのは、人口5,000万以上の先進国では日本だけです。韓国でさえ2つあります。フランスもドイツもイギリスも、アメリカなんかは幾つもありますが、日本だけは外国人記者クラブを東京にしか設けさせないということにいたしました。こういう情報機能の一極集中というのが非常に効いてまいりました。第2番目は、1960年代から猛烈に始まりました産業団体の全国団体をつくらせると。そして、その産業団体の全国団体の本部事務局は東京都心6区につくらせるという政策をやりました。私が通産省に入ったときにその政策の真っ最中でございまして、そのときに問題になったのが大阪にあった繊維産業の本部、これが12あったんですけれども、紡績協会とか化繊協会とかアパレル協会とか12あったんですが、これをぜひ東京へ持ってこいというので大騒ぎいたしまして、ちょうどニクソンショックでアメリカが日本の繊維品を輸入制限すると言った、これ幸いに、アメリカと交渉するためには、まず何よりも日本の繊維団体が東京へ移転しなきゃならないということにいたしまして、それで当時の首脳部がいろいろ考えて、日本繊維産業連合会という屋上屋の団体をもって、それをまず東京に置くということになりました。
それから、金融機関につきましては、日本銀行協会というのがあったんですが、銀行協会の会長になるのは東京本店のある銀行でなきゃいかん。三和銀行と住友銀行はだめということにいたしまして、どんどんと誘致して、それで三井住友ができたときにはたちまち向こう行っちゃうということにしました。こういう経済、産業の中枢管理機能を東京に移転する。3番目は文化創造活動。これはご存じかと思いますが大問題になりまして、文化創造活動は東京以外でしてはならないというのを文部省を中心に決めました。それで、そのためにどうしたかというと、特定目的の文化施設は東京都にのみつくると。例えば歌舞伎専門劇場。歌舞伎の専門劇場というのは5つの要素がないといけないそうで、引き幕と回り舞台と花道と緞帳と和風の楽屋と観客用食堂がある。この5つがそろっているところは東京以外につくらさないということになりまして、大阪で新歌舞伎座をつくるときには回り舞台をつけることができなかった。それで芸術祭の参加には全部拒否されるという事態になりました。また、リングスポーツ、国技館とか武道館とかですね、ああいうものも大阪ではないので、大阪の相撲は平場でやって臨時の升席を組むようになって、結構コストかかるんですけれども、そういう仕掛けにしなきゃいけないということにしました。
このとき、昭和50年代ですが、このとき唯一例外になったのが、国民体育大会を全国持ち回りにするということを決めまして、そのために、スポーツだけは文化集中主義の例外であるということが決まりました。だから、北海道日本ハムだろうが福岡ソフトバンクだろうが全国の話題になります。ところが、札幌交響楽団とか京都交響楽団なんていうのはなかなか東京で演奏しても話題にならない。福岡ビエンナーレなんていうのはパリのルモンドの新聞を引用して日経新聞が載せるような状況になっております。(省略)
私自身がエビデンスを取り切れいていないので断言はできないが、通産省(現:経産省)の元官僚を経験された方の意見であり、十分参考に値するのではないかと思う。
これを事実とするのであれば、戦後から高度経済成長期にかけてはかなり強力な東京一極集中政策を取ったということになる。
上記の東京一極集中政策は、日本の頭脳を東京に集める一方、地方はその手と足になって工業製品を作ることが最も効率的だとする考えに基づいて実施された。
この当時は規格生産型社会であり、より良い規格製品を大量に作ることが社会全体の目標であった。
戦後の貧乏から脱却し、誰もが団地などの持ち家を買い、テレビや洗濯機などを買いそろえて豊かになることが良いとされた時代であった。
より早く効率的に日本全体を豊かにする必要がある時代では、東京一極集中政策は大変有効なものだったと思う。
東京を中心とする国の構造は変わっていない
今は当時と違って東京が強くなりすぎたので、国側も危機感を抱いており、それなりに地方創生をしたいのだろうという意欲は見える。
確かに、現場の職員レベルでは、地方を何とかしたいと関心を持っているスタッフ(官僚など)も多い。
また、東京一極集中の原因は、集積が集積を呼ぶという集積のメリットや東京自身の努力によるものでもあるので、全てを批判するわけではない。
ただ、テレビ局を中心とするキー局制度や、立法権や行政権が東京に集中する日本の構造は当時からほとんど変わっていないのも事実である。
そしてその格好の餌食になったのは、反東京や反中央省庁の気風が強い大阪であった。
昔は「くそったれ東京」と騒げる元気や経済に対する強い自信があったが、「大阪復活のために重要なこと④‥自信を取り戻すこと」でも触れた通り、半世紀近くが経って大阪・関西は自信すら失ってしまった。
因みに私が「大阪復活のために重要なこと②‥何かの中心地であること」で次世代産業の一つとして「情報通信産業(ネットテレビ局)」を指摘したのは、関西がそのポテンシャルを有する地域であるだけではなく、まさに国の情報発信の構造を大きく変えられるからでもある。
堺屋氏の指摘でいえば「①情報発信機能(テレビ局、新聞)を東京に集めたこと」に当たる。
多様なアイディアが求められる時代において、価値観が均一化してしまう東京一極集中は制度疲労を起こしていると思う。
1990年以降、日本は失われた30年を経験し、世界全体でのプレゼンスを急速に低下させてきたが、それには東京一極集中による価値観の均一化が一因だと思う。
失われた40年や失われた50年などと言われないように、地方から色々なアイディアが生まれる社会構造に変革する必要性があるだろう。
今回は官僚による東京一極集中政策がどのように実施されたのかについて、軽く触れてみた。
あくまで堺屋氏一人のコメントであるから、さらなるエビデンスが必要だが・・・
以上です。
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